後漢とは
後漢は25年〜220年の間中国に存在した王朝。劉秀(リュウシュウ)が洛陽を都にして建国した。
三つのポイント
- なぜ200年も続いたのか
- 文化
- なぜ滅んだのか
なぜ200年も続いたのか
後漢の前は前漢と言う王朝があったのだが、一度皇帝の奥さんの親戚(外戚)に乗っ取られて新という王朝を建国されてしまう。しかし新が1000年前の国の体制にもどそうという無茶苦茶なことをし始めたために15年で滅ぼされる。豪族の力を借りて劉秀(リュウシュウ)が新しく後漢を建国した。豪族の力を借りて建国されたため後漢において皇帝の力は弱かったため劉秀以外の皇帝は出てこない。
なぜ皇帝の力が弱いにもかかわらず、200年も続いたのか? それは現在イランのあたりの国やローマ帝国などの国との交流で非常に栄えていたからである。後漢からローマ帝国に使者が派遣されたり(成功はしなかった)、逆に当時のローマ帝国皇帝であるマルクス・アウレリウス・アントニヌスからも使者が送られてきたりした。この様に外との交流で非常に栄えたため約200年も続く長い王朝を築くことができた。
文化
前漢も含め漢の時代には非常に文化なども発展した。
儒学
前漢の皇帝である武帝の時代に儒学が正式な国の学問になったこともあり儒学が多く学ばれた。後漢の時代では儒学はかなり昔の教えになっていたこともあり、古典的な扱いで学ばれる様になる。
歴史書
この時代に歴史書が書かれることになる。前漢の時代には司馬遷(シバセン)によって「史記」が完成された。これは年表に沿って出来事を羅列するのではなく、偉人にスポットライトを当て誰々の時代にはこんなことがあった的なノリで太古から武帝までの歴史が書かれた。さらに後漢の時代に班固(ハンコ)によって前漢が付け加えられた「漢書」が書かれた。
紙
これまでは木や竹に文字を書いていたが、後漢の時代に蔡倫(サイリン)によって紙を作る方法が発明され紙の普及に絶大的な影響を与えた。
なぜ滅んだか
長く続き、様々な文化の発展やイノベーションを生み出した漢もやがては滅ぶこととなってしまう。
滅んだ主な要因は外戚(ガイセキ)や宦官(カンガン)による政治の腐敗である。皇帝の妻の親戚である外戚や皇帝のお世話係である宦官が権力を求めて争い合うことになる。お世話係の宦官が官僚を弾圧するなどして社会不満が高まっていった。
民衆に不満が高まる中張角(チョウカク)という人物が現れた。この張角をトップとした宗教団体の太平道(タイヘイドウ)が頭角を現し、黄巾の乱が起こる。こうして漢は長きに渡って中国を統一してきた歴史に終止符を打つこととなる。
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