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アジア方面への進出と最盛期
セリム1世
オスマン帝国は建国以来バルカン半島方面へと進出して行ったがセリム1世の時にアジア方面へと方向転換する。セリム1世はエジプトにあったマルムーク朝を滅ぼしてイスラム教の聖地であるメッカとメディナを支配下に置きイスラム教のリーダーとなった。

メッカとメディナを獲得してイスラム世界のリーダーになるぞ
スレイマン1世
セリム1世の次はその子供であるスレイマン1世が皇帝になった。スレイマン1世の時にオスマン帝国は最盛期を迎える。スレイマンは再びヨーロッパ方面へと進出を狙っていく。

ヨーロッパ方面に進出するぞ。まずはハンガリーだ。
スレイマン1世は早々とハンガリーを征服。その後隣国であるオーストリアに対してウィーン包囲を行う。この第一次ウィーン包囲自体は失敗に終わるがヨーロッパを震え上がらせることになる。

オーストリアのウィーンを包囲するぞ
スレイマン1世の快進撃は止まらず、プレヴェザの海戦によりスペイン・ヴェネツィアの連合艦隊を破り地中海での覇権を獲得する。

スペイン・ヴェネツィアをボコして地中海を俺の物にする
商業国家への変貌
メフメト2世によるコンスタンティノープルの陥落に始まり、セリム1世によるマルムーク朝滅亡。そしてスレイマン1世によるプレヴェザの海戦での勝利によって地中海並びにアジアとヨーロッパを結ぶ地域の覇者となったオスマン帝国は貿易により莫大な利益を手にすることになる。

貿易は全て俺たちのものだ
オスマン帝国はティマール制と呼ばれる制度を使って軍人に給料を与えていたため領土の拡大が必要だったが、貿易でお金が手に入るようになったので領土の拡大を狙わなくても良くなった。

貿易で手に入ったお金で軍人たちの給料を払えるぜ
こうしてオスマン帝国は長きにわたりヨーロッパを震え上がらせることに成功した。
外交での失点
領土を拡大し世界の貿易を牛耳ることになったオスマン帝国だったが、一つ過ちを犯していた。それがカピチュレーションと言われるものだ。ウィーンをなんとしても手に入れたかったオスマン帝国はフランスと同盟を結んでオーストリアを挟み撃ちにしようと考えた。なんとしてもウィーンが欲しかったためフランスに有利な条約を結んでしまうことになった。これがカピチュレーションだ。

ウィーンがなんとしてでも欲しいから多少不利でもフランスと条約結ぶか
この同盟関係でフランス商人はオスマン帝国領土にいてもオスマン帝国の法律では裁かないことを認めてしまった。これは要するにフランスの商人が大量に移ってきてフランス人居住地域を作ってしまうとそこはオスマン帝国の領土でありながらオスマン帝国の法律が適応されない実質のフランス領のようになってしまう。

あれ?フランス人商人大量に送り込めばオスマン帝国の領土を実質俺たちの領土にできるんじゃね?
ウィーンが欲しいために不平等な条約を自ら結んでもらうことになったオスマン帝国。これが後の衰退期に西欧諸国に不平等条約を押し付けられるヒントになってしまう。
まとめ
オスマン帝国は順調に領土を拡大していきスレイマン1世の時に最盛期を迎えることになった。地中海の覇権を握りアジア⇄ヨーロッパの貿易を牛耳ることで莫大な利益を得る商業国家へと変貌した。ただしウィーンが欲しいばかりに自らフランスと不平等条約を結んでしまうというこの時失点も犯していた。
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